政治家
吉田 茂
1885年(明治18年)9月2日に北海部郡臼杵町海添で士族の吉田亀次郎、ハルの長男として生まれる。
父亀次郎は大分銀行の前進である二十三銀行に勤務、その後日本銀行に勤務する事となり、東京へ行くこととなる。
1911年に東京帝国大学法科大学独法科卒業、高等文官試験合格し内務省に入った。
1923年に37歳の若さで東京市助役となり、直後の九月一日、関東大震災に見舞われる。
米内光政内閣厚生大臣、東条英機内閣では福岡県知事、小磯國昭内閣では軍需大臣を務めた。
戦後は戦犯こそ免れたものの、GHQによって公職追放となる。
1954年12月9日没
井上 準之助
1869年(明治2) 3月25日、大分県日田郡中島村(現日田市)の造り酒屋の五男として生まれる。
日田教英中学、仙台第二高等学校を卒業後、東京帝国大学法科に入学する。
1919年日本銀行総裁(第9、11代)に就任したのち第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の大蔵大臣を務める。昭和5年金解禁にこぎつけるなど、その力量は高く評価されている。
1932年2月9日に選挙運動中、血盟団員 小沼正に暗殺される

重光 葵
1887年(明治20年)7月29日大分県大野郡三重町市場(現多田銃砲火薬店)にて大野郡長の次男として生まれる。
31年に中華公使となり、32年の上海事変停戦協定を成功させ、直後暴漢の爆弾により右足切断する。
その後、隻脚の外交官として活躍する。公式の場では重さ10kgあまりの義足を着用した。
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上で米国の戦艦ミズーリ号甲板上でおこなわれた、連合国への降伏文書調印において、日本政府全権として梅津美治郎参謀総長(軍全権、中津市出身)とともに署名を行った。
戦後はA級戦犯として起訴され1951年に出獄後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。
1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として有名な東西の架け橋演説を行う。
1957年(昭和32年)1月26日、神奈川県湯河原の別荘で死去。69歳。


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