武士・軍人
豊田副武
1885年(明治18年)5月22日に現在の杵築市に生まれる。
1941(昭和16)年9月に海軍大将に進級する。
前任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将の殉職(海軍乙事件)を受けて1944年(昭和19年)5月3日に連合艦隊司令長官に任命される。
その後、帝国海軍最後の軍令部総長に任命された。大の陸軍嫌いとしても知られていた。
戦争末期には連合軍に対して徹底抗戦を唱え戦争継続と本土決戦を主張していた。
戦後、戦犯容疑で逮捕されるも不起訴となる。
1957年(昭和32年)9月22日に 享年72 で死去。
阿南 惟幾
1887年(明治20年)2月21日出生。大分県竹田市出身。
1918年(大正7年)陸軍大学校卒業し1929年(昭和4年)侍従武官・陸軍省人事局長を歴任する。
1945年4月(昭和20年)鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣となる。
戦争終結には最後まで反対の立場であったが、現役の軍人の中より陸軍大臣は出さねばならない「軍部大臣現役武官制度」があったため自身が辞めれば内閣は総辞職するしかなく戦争は続行できたはずであるが辞めていない。
迫水久常の「機関銃下の首相官邸」にも「もし阿南陸相が本心からの抗戦論着であれば、ここで内閣を総辞職に追い込み、次に軍事内閣を作ることを考えたであろう。このあたり阿南陸相の心事を示すところである。」とあり、阿南が本土決戦を心から望んでいたとは言えない。
戦争続行の空気が支配する陸軍の中で陸軍大臣が戦争終結に賛成すれば部下に殺される可能性もあった。
そのような中、終戦の全ての処理を行った後、『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ』 (遺書) を残し自決、介錯を拒み、翌日の朝絶命する。
墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。享年60歳
広瀬 武夫
1868年(慶応4年)7月16日、大分県竹田市で広瀬友之允の次男として生まれる。
明治の大日本帝国海軍軍人でロシアへ留学するなどロシア通として知られていた。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争において旅順港閉塞作戦に参加。
閉塞のため用意された福井丸を指揮し閉塞船を脱出する際に行方不明となった部下の杉野孫七上等兵曹を船内に戻り捜索。ボートに戻ったところをロシア軍砲弾を受け戦死する。
日本初の軍神となり、生誕地の竹田市に広瀬神社(昭和10年創建)が建立され祭られている。
大友 義鎮(宗麟)
1530年(享禄3年)1月31日豊後府内(大分市)に誕生。
大友氏の第21代当主で戦国時代のキリシタン大名。宗麟は法号
北部九州のほぼ全域を支配権を掌握し大友氏の全盛時代を築く。
1563年(永禄5年)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に臼杵城を築城する。
大友氏はこのとき毛利元就との戦いに敗れており、毛利氏に対する守りを固めるため府内城より移り住むこととなる。
天正14年12月に薩摩の島津勢に戸次川の戦いで敗れて衰退の一途をたどる事となる。
地図 → 座標: 33.138817, 131.658383
晩年は豊臣秀吉の家臣となり豊後一国を支配するのみとなった。
1587年(天正15年)、大分県津久見市で病没。
緒方三郎惟栄
生没年不詳・・1143年(康治2)~1196との説も?。
緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は12世紀末、豊後国緒方荘を拠点として現在の熊本や宮崎まで勢力を延ばした武士団の棟梁。
もともと平家に仕えた武士だったが、平家に疑問と反感を抱き、源平の戦いで義経ら源氏側につき水軍を率いて1183年(寿永2年)9月の壇ノ浦の戦いで平家の軍を破った。
『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』には、惟栄が幾度となく登場し、その勇猛果敢な活躍ぶりが記述され歴史上に一躍その名を馳せた。
1186年、義経の見方をした為、頼朝に囚われた惟栄は上州(現群馬県)へ島流しになり数年の後、許され帰郷し大分県山香町で没する。
荒城の月に歌われる岡城は1185年(文治元年 )義経を迎えるため惟栄が築城した。

梅津 美治郎
1882年(明治15)1月4日に大分県中津市で生まれる。是永家から梅津家の養嗣子となった。
中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を卒業後、1903年(明治36年)11月30日に陸軍士官学校卒業(15期) 。
支那駐屯軍司令官時代には日本の華北進出の第一歩となった梅津・何応欽協定(1935年6月10日)の締結に成功する。
1942(昭和17)年10月1日に関東軍(満州駐屯の日本軍)総司令官、1944(昭和19)年7月18日には参謀総長となり終戦を迎える。
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上で米国の戦艦ミズーリ号甲板上でおこなわれた、連合国への降伏文書調印において、軍全権として重光 葵外務大臣(日本政府全権、豊後大野市出身)とともに署名を行った。
1946(昭和21)年4月にA級戦犯として起訴され極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁固刑を宣告
1949(昭和24)年1月8日、服役中に病没した。





.jpg)

